昭和54年10月06日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられるぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」  
 最後のところの、氏子の早い遅いにかかわると言うておられますが、もう金光様の御信心はもうこの通りですね。言うならば親が立派なら子供も立派と。親がこうすればこうあぁすればこうなると言う、ひとつのまぁ法則のようなもんでしょうね。ですからそこんところをいつも確かめ確かめして参りませんと、この頃信者がお参りが遅くなった。なら自分が早起きをせずに、遅くまで寝ておるからだと言う風にね。そこんところをはっきりと教えておられるですね。
 どうしておかげを受けられんじゃろかではなくてね。だからこうして神様が分からせて下さると、言った様なところを感じなければいけません。よく信者の悪口を言う先生があると、まるっきり自分で自分の事を悪く言っておるのも同んなじだと言う先生があります。確かにそうですね。ですからもうそんなにも間違いのないのですから、そこんところの間違っておれば正していく、正していくその手立てを、日々の信心の稽古に求めていかなければいけんのです。
 こりゃもう絶対の法則です。もう何十年も前の頃に頂いた御理解の中に、信心も引いたり足したり、掛けたり、割ったり、と頂いた事があるのです。割れば割ったの答え、引けば引いたの答え、足せば足したの答え、掛ければ掛けたの答えがね、ちゃんと出来るようになっている。そんなにもこの神様は間違いがないんだと言う事なんです。ここまた暫く私はまた大変水を頂くようになりました。水を頂くようになりましたら、やっぱ身体がきついですね。ほんの一、二か月の間だった。
 親先生がもう本当にもう手も上げうごつなかごときつい、もう四時半に退ったら布団の中にガタッと倒れ込むごときつい。そう言うひと時が一日の内に必ずあった。もうそれこそもうクタクタと言うか、そげなこっちゃないですもんね。何かあの本当にパタットと倒れ込んでから物を言おうごつないごときつい。はぁきつさと私が申しましたら御心耳に響いてくるのが『死神が集まる』と仰る。もう私はびっくりしてから以来もきつかってもきついとは言うまい。結構な修行をさせて頂いて有り難いと御礼を申し上げよう。
 そういう腹を決めてから気が付かなかったら、四、五日してから気が付いた。あら最近お水を頂かんごつなっているな。そして「あっきつさ」と本当に言わんでん済む様に、おかげを頂いとるなぁと言うて。皆さんにもその事を体験ですから聞いてもらった。だからこれは例えばお金がないなら、お金がないと言う事を、こんな本当にどうして何時までもこんなに、貧乏の苦しみをせんならんだろうかと。金がない、金がないと言うて悔やみよったら、貧乏神は離れませんって。
 おかげで結構な修行をさせて頂きますと本当に、心から例えば借金の断りにでん行くにでも、意気揚々として行ける位の心持ちが生まれた時に、死神はもう居たたまれなくなってもう離れていくんだと。そして福の神と入れ替わるんだと理屈は同んなじだと、言うお話を聞いて貰いましたよねあの時分に。そうなんですなら所がです。なら親先生はまた水飲むごつなって、またきついきついち言いやしません。だから言いやしませんけれどもです。なら身体がきついと言うのは、まぁ神様もいい加減なもんだなぁ。
 おかげもいい加減なもんだなぁと思うたり、言うたりする人があるかも知れませんけれども。おかげをおかげとはっきり頂き止めなきゃいけません。これはどこかまた私が間違うとるんだと分からなきゃいけません。今朝からもその事を神様にお願いさして頂きよりましたら、深くまぁ言うならば掘り下げたと言うか、もう本当にもう深く掘り下げたところから何か湧いて出てくるように、言うなら深く掘れば水が湧いて出てくるように、そんな感じのところを頂いて。
 今度は横に広ぅくそれと同じように横にずうっと、それが縦のが横に広がっていくところを頂いたんです。ははぁそして今日の御理解を頂いて。信心も引いたり足したり掛けたり割ったり。御比礼が立つとか立たないとか言う教会がありますけどもね。引くだけしか知らん足すだけしか知らん、掛けるだけしか知らん、割るだけしか知らんと言った様な事では、やはり本当の御比礼にはならないね。その引いたり足したり、掛けたり割ったりという一つの、原則的なものとでも申しましょうかね。
 そう言うものが原理ですかね、と言う様なものに触れての信心。そこからお育てを頂くと言う。だから私が深ぁい例えばね。あぁきついと言うたら死神が集まると言う程しの思い方と言うものは、もうこれは大変に深い考え方なんですね。だからこれをなら横にもつどこまで広いかわからんと言う様に、これは長ぁく横に広がって行ったら、本当の足す字になるんだあ。本当の足す字の信心が出来るんだなと。今日からその横に広がると言う事をどう言う事なのか、一つ極めて行こうと言う風に私は思わせて頂きました。
 昨日は日田の綾部さんの御案内で、東京歌舞伎を見せて頂きました。まぁ本当に堪能させて頂きました。しかしこの頃思います事は、本当に私には好き過ぎるものが、段々無くなってきたと言う事を思います。以前大変お芝居が好きですから、そのう歌舞伎を見せて頂いたら一週間位皆さんが、歌舞伎の御理解を頂かなきゃならなかったですね。もうそのお知らせを頂く事が、歌舞伎のその場面が頭に残ってる。それに関連しての事ばっかりでしたよ。だから大変面白い御理解を頂いた事にもなりますけれども。
 この頃は、今日はどげな芝居じゃったよと言うて帰ってから思い出しても、忘れとるようにおかげ頂いとると言う事です。そして私は昨日初めてお芝居見ながら眠気がつきました。これなんかもう本当にあのう好き過ぎると言うものが、なくなっとる証拠だと言うふうに思わせてもらった。それでもね私がそれなら芝居に行こうじゃなくて、神様が行かして下さろうとしておる。けれどもこれは本当に確かに神様が、この大事な御用を半日でも御無礼せんならんのだから。
 これは本当のこっじゃあるだろうかと、こりゃ思うて見なきゃいけません。いわゆる引いたり足したり、掛けたり割ったりしてみなきゃいけません。昨日いつも八時半までここで奉仕さして貰いますが、下がろうと言う時間にあのう床屋さんから電話が掛って来た。ある御信者さんが必ずその出張理髪をさせて下さるから、私だけは床屋さんに行かんでんその人が来てくれる訳です。けども来る日ではなかったんですけども、今日行ってもいいでしょうか。向こうに都合があるからと言うわけなんですよ。
 あぁそれなら今すぐ来てもらえば間に合うからと、すぐ来てくれましたから。いつも八時半に来る。退いた時ですから時間もその時間に来てくれました。あぁやっぱり私がお芝居ども見げ行くなら、髭がはえとったり頭が伸びとったりじゃいかんから、神様がもう準備して下さっておるなあと。まぁそう言う様な何から何までの中にです。はぁ許されて今日お芝居の見物を頂いておるなと言う心に、安らぎとだけではない、神様がこんなにしても手厚う私を扱うて下さると言う、その喜びをもってね。
 おかげを頂いており、またこりゃ本当に驚きですけれども、私共があのう座らせて頂いとる席はちょうど中頃でした。中頃、私はこの頃非常に目が悪いから見えないんですね。それから綾部さん、どっか席はないだろうかと言うて、下に探しに行かれたそうです。ところがちょうど去年のこの秋の、やはり東京歌舞伎が来た時にも、綾部さんの御案内で参りましたが、ちょうど日田の方が見えておって。あのう前の素晴らしい席と変わって下さったんです。
 そしたら今年もねやっぱりその方が見えておったんですそこに。そしてからお二人なら私どんが二人こうのいてあげよう変わってあげましょうち、こう言われたち言うんです。そして私どんが座ったら、もう四人もおんなさるならあんた方もと言うて、話し合いが出来たごたる風でその後ろの方へ変わって下さる。若い方ですからあんまりお芝居をま、後ろから見ても見られる訳でしょう。けれどもただそれだけの事ですけれどもね。考えて見りゃこげな不思議な事はなかと言う事ですよ。
 去年ね。席を変わって下さった方が、また今年もその変わって下さると言う様な働き、だから綾部さんが、あなたは御縁が深いとですばいち言いよんなさいましたがね。本当におかげを頂いておると言う感じがするでしょうが。どげな馬鹿でもチョンでも、そげな働きがそれ今日はふが良かったとは、信心しとるなら思われないでしょうもんの。しかも去年変わって下さった方が、今年もまた私共四名の席を本当の、あのう五、六枚目の素晴らしい場所に変わって下さったね。これなんかはいつも私の心の中に一つの事が、引いたり足したり掛けたり割ったりが出来ていきよると言う事なんです。
 一つの事一つのきちっとこう焦点がね。きちっと合わなければね。今日は許されんで来ておる。今日は神様に反発をしてこんな事をしておる、と言う様な事があったんではおかげにはならんですね。まぁそんな間の中にでも、もうまぁいろいろな事がこざいました。昨日一昨日、あの佐田典子さんがあのうお導きをして参って来ます、ニュ-オオタニに勤めておる女友達の方があるんです。私共が昨日帰りニュ-オオタニの支那料理でよく食事をして帰りましたけれども、そこにひょっこりやって来たんです。
 あらあんたどうしてと昨日、一昨日手紙が来とりましたから、あの手紙読ませて頂いてこうこうだったよと言うて。挨拶に来てくれましたから言う事が出来ると言った様な事でもね。あのう神様の働きの間違いなさと言うか、私の動きそのものに間違いがなかったなと言う事確かめる事が出来る。そう言う確かなものを持ってお取次をしなければね。本当の良いお取次は出来ないと私は思うんですね。
 私は御比礼が立つとか立たんとか、守々の力と言う風にここでは言っておられますけれども、その守々の力と言うのは引いたり足したり掛けたり割ったりが出来ておる教会。言うならそれ程に間違いのない。例えば人間ですからどんな事でもありますけれどもね。それが言うなら素晴らしいコントロ-ルが出来て。そこに神様の間違いのないおかげの答えが出て来ておると言う。そう言うお教会に御縁を皆さんが頂いておると、言う事になるのじゃないでしょうか。 
 そこの先生が早い遅いが、そこの信者のお参りの参詣の早い遅いに係る。この言うならば取次をする者の言うならば、力と言うのは今日皆さんに聞いて頂いた様な所の事を、力と言うのではなかろうか。引くばぁかりと言った様な教会があるかも知れません。なら足すばぁっかりと言う。例えて言うならおかげばかりは頂くけれども、と言った様な教会なんか足すばっかりぢゃなかろうかと思うですね。
 まぁいろいろありましょうけれどもね。言うなら引いたり足したり、掛けたり割ったりの原理と言うものがです。言うならば信心の上にもあると言う事です。私がこんなにも間違いのなくとにかく、あぁきつさを言わんでんね。あぁきつさてんなんて本当に本気できついと言いよると死神が集まる。お金がない事を芯から本気で貧乏ちは、どうしてこげんつらいもんだろうかと言うて悔やみよんなら、いつまでも貧乏神が離れん、これ原理です。ですから信心によってです。なぜその苦い事が喜ばねばならないか。
 こんな事はいうなら徒や疎かに言う事じゃないと言う様な事をです。言わんで済むおかげを頂けばおかげが手の平を返すように、けれどもそう言う言うなら深ぁく下へ掘り下げたような信心だけではなくて。今度は横にもずうっと広がっていく信心がある。だからこの神様の本当に糖尿病なんかと言うのは、そんなに快くなったり快くならなかったり一変にすきっとするものではないけれども。なら神様の働きを受けなければ、手の平を返すようにすっきりする事が出来るという事。
 だからそれだけではね。だからあん時おかげ頂いたばってん、あん時のおかげはただふが良かったじゃろうか、偶然ぢゃったやろうかと言う様な事が思われるような事で。なら私のそれでもそうね。あれは偶然じゃったじゃろうかと言うたらもそれまでです。そこで私はどこに鎌田お粗末が出来たに違いない。御無礼が出来たに違いはない。だから元に戻ったんだと分からせてもろうて、今日はその事を神様にお伺いさせて頂いたら。横にとこう言う事、だから縦の信心の深ぁいところが分かったから、横の信心につながって行くところの深ぁい信心も、また分からなければいけないよと言う事なんでしょう。
 皆さん御本部参拝は明日の朝出発でしょうか、今晩たたれる。私はもう直ぐ今日は発たなければなりません。福山今日から福山泊まりになるんです。そしてあくる朝あちらで皆さんと合流するわけなんですけれども。福山の御信者がそのう福山に泊まって頂くなら、あちらの信者集まって、お話を頂きたいと言う事になっているんです。そしたらちょうどすぐ駅の近所に松乃屋と言う旅館があって、ここにお参りをしてくる方の御親戚の家だそうです。だからそこに宿をとりますから。
 だから福山から御本部まで送ったり迎えに来るのは、福山の方で受け持たして頂くという事になっているんです。だからあのう今日は早く発ちまして、今日の昼はあちらで私の話しを皆さんの話を聞いて下さる事になっている。そう言う様な意味もだんだん広う深うなって広うなっていきよる、この二十目には東京支部の大祭がございます。またあちらへ出張と言う事になるわけなんですけれどもね。
 広くなる為にはやはり自分の信心も広くならなきゃいかん。深いおかげを頂くためには信心が深うならにゃいけん。初めて足すという字になるのです。お互いの信心生活の上にもです。ここはこんなおかげ頂きよるが、これは本当のもんだろうかと思うて、言うなら足したならば引いてみる慎重さがいります。そりゃもうこげんもうそれこそ5×5=25と言うごたる風で、おかげ頂くような場合がありますから。
 これは本なこっじゃろうかと思うてね。一辺割ってみないけません。そこからね、はっきりした答えが出て来て。あこれは間違いがないところを行ってるんだと言う事を、自分にも確信しながら、日々の信心生活が進められていくと言った様な、おかげを頂かなければならない。今日のこの90節は言うならまぁお道の教師に下さった御教えでしょうけれども、今日あたりのようなふうに頂きますと誰でも頂けると言う事になります。もうとにかく心一つで全てを創ると言われるのですからね。
 おかげがあるもなきも和賀心なのですからね。どうしてと言う事言わずにね、こうして分からしてもらうと言う信心がなされなければ。この頃どうも信者のお参りが少なくなってきたが、こちらの信心が薄くなってるんだと、まぁ取次者は思わなければならないね。この頃お参りがえらい皆んな遅うなったがと言う時には、なるほど自分が朝寝しよったもんだから、と言う風に分からなきゃならない。その事をねここではっきりと教えておられると思うです。
   どうぞ。